An −第三章・2−
「アン、大丈夫か?」
「……はぁ、はぁ……っ、えぇ……」
倖弥とアンジェルは深い闇にも似た森の中を手を取り合い走っていた。
真っ暗で前も足元すらも見えない。
それでも“追っ手”から逃れる為に、ただひたすらに走っていた。
“早くこの森を抜けたい”
……やがて――、
二人は広い荒野に出た。
「はぁ、はぁ……アン、もうすぐだ! もうすぐ……きっともうすぐ町がある。
……はぁ、はぁ……そうしたら、港へ行って船に乗ろう!」
倖弥と何もない荒野を走り抜けながら、より一層アンジェルの手を強く握って
優しい笑みを向けた。
「えぇ」
そしてアンジェルもそれに応える様に手を握り返し、微笑んだ。
だが、その直後、倖弥が急に足を止めた。
「はぁ、はぁ……ユキ?」
「……崖だ」
倖弥の視界の先には切り立った崖があった。
周りを見渡し、海や町に続いていそうな道を探す。
しかし、こんなだだっ広い荒野に“道”などあるはずもなく、
倖弥は自分の勘だけを頼りに別の方角へと走り出した。
“早く町へ……っ”
――だが、目の前に見えてきた光景はまたしても崖だった。
“早く町へ……っ!”
その強い思いだけが空回りする。
無風だった荒野にはいつの間にか冷たい風が吹き荒れ、
遠くから馬の嘶きと蹄の音を運んで来た。
「く……っ」
“早く町へ行きたいのに……っ”
「ユキ……ッ」
アンジェルは焦り始めた倖弥を不安そうな顔で見上げた。
「……大丈夫だ」
アンジェルを抱き寄せながら、自分に言い聞かせるようにつぶやく倖弥。
しかし、引き返す訳には行かない。
だって、松明の灯りがすぐ後ろまで迫って来ているのだから。
前方は高い高い崖。
とても下りられる角度ではない。
後方は追っ手。
左右からも馬の嘶きと蹄の音が聞こえる。
“もう……逃げ場がない”
「ユキ……」
「大丈夫だ……アンは、俺が守る」
そう応える声も微かに震える。
そして、倖弥達の前に追っ手がその姿を現した。
ウェッジム王国の王立騎士団だ。
「アン、俺の後ろに」
倖弥はアンジェルを背にした。
「アンジェル王女をこちらに引き渡せ。さもなくば、この場でお前を討つ!」
先頭にいる漆黒の甲冑を纏った人物は剣を鞘から抜いて倖弥に向けた。
後ろにいる騎士達も武器を構える。
すると、倖弥の前にアンジェルが出てきた。
「アンッ! 駄目だ、下がってろ!」
倖弥は慌ててアンジェルの手首を掴んで引き寄せた。
しかし、アンジェルはそれを拒み、再び前へ出ると懐から短剣を出し、
漆黒の騎士に向かって叫んだ。
「こんな大勢で囲むなんて卑怯だわっ! あなたも騎士ならば、
正々堂々と一対一で勝負なさい!」
「アンジェル王女、まさかこの私と勝負をするおつもりですか?」
漆黒の騎士はククッと笑った。
「何もしないであなた達に連れて行かれるより、負けてこの場で
殺される方がマシよ!」
「何を言ってるんだ、アン!」
「あーっはっはっはっ! なかなか面白い女だな、気に入った!
いいだろう、一対一で勝負してやろう」
アンジェルの言葉を聞いた漆黒の騎士は、さらに大声で笑いながら言った。
「エリック様っ!?」
漆黒の騎士の隣にいる白い鎧の騎士と、後ろに控えている騎士達が
一斉に漆黒の騎士に視線を移した。
「エリック……? それじゃあ、あなたがエリック王子なの?」
「あぁ、そうだ」
「だったら、この勝負、俺が受けて立つ!」
漆黒の騎士がウェッジム王国のエリック王子だと知り、倖弥がアンジェルの前に立った。
「ユ、ユキ……ッ」
「無論、初めからそのつもりだ。もし、お前がこの俺に勝つ事が出来たなら、
アンジェル王女との結婚は諦めよう。
だが、俺が勝ったなら遠慮なくアンジェル王女は連れ帰る。
それでいいな?」
「あぁ」
倖弥が返事をすると、エリックは馬から降りていまだ武器を構えたままの
騎士達に振り返り叫んだ。
「構えを止めて武器を収めよ! 手出しは一切罷り成らん! よいな!」
騎士達はエリックの命令通り一斉に構えていた武器を収めて馬と共に後退した。
「最初は政略結婚などまったく気乗りしなかったが……この女なら
退屈しなくて済みそうだ。
どうしても手に入れたくなった……だから、本気で行くぞ!」
エリックは不敵な笑みを浮かべ、剣を構えた。
「アンジェルは絶対に俺が守るっ!」
そして倖弥も抜刀して剣先をエリックに向けた。
「「うおおぉぉぉぉぉぉぉぉーっ!!」」
倖弥とエリックの剣がぶつかり、アンジェルを賭けた二人の闘いが始まった。
◆ ◆ ◆
「ユキ……ッ」
アンジェルは両手の指を胸の前で組み、祈るように倖弥を見つめた。
王立騎士団も皆、固唾を呑んで見守っている。
それは、剣豪で知られるエリック王子と倖弥が対等に闘っているからだ。
「く……すぐに決着がつくと思っていたが……ふんっ、なかなかやるな」
エリックは自分の繰り出す技が次々とかわされ、少しばかり焦りを感じていた。
「……」
しかし、倖弥の方はその言葉に応える余裕さえもなかった。
幼い頃から続けてきた剣道とはまるで違うからだ。
それでもサントワール城でアッシュや他の兵士達に混じり、
毎日演習をしていたおかげでなんとかなっていた。
もちろん、真剣でやるのはこれが初めてだが。
“くそ……っ、剣が重い”
闘いが始まってもうどれくらい経っただろうか。
体感からしても、いつもの試合時間よりもはるかに長く感じる。
「はぁ……はぁ……」
“本物の剣て、こんなにも重いものなのか……?”
「はぁ、はぁ……」
「どうした? 息が乱れてるぞ?」
息があがり、動きが鈍り始めた倖弥に、エリックは口端を吊り上げた。
“くそ……っ”
「ユキッ!」
“アン……”
「そろそろ決めさせてもらうぜ」
エリックはにやりとして、交えていた剣を一度離し、すぐさま中段に構えた。
そして、倖弥の態勢が整う前に切り込んで来た。
剣先は胴の辺り。
“胴を狙っているのか?”
倖弥は剣を弾き返そうと中段よりもやや下に剣先を向けた。
すると、倖弥の目の前でエリックは上段に構え直し、
それによって倖弥の剣はかわされ、そのまま振り下ろされたエリックの剣が
倖弥の左腕を斬りつけた。
「うっ」
倖弥は剣を落とし、よろめきながら後退りした。
「ユキッ!?」
「そのまま地獄へ落ちろっ!」
倖弥の後ろには崖がある。
このまま下がれば落ちてしまう。
エリックはアンジェルの目の前で倖弥に止めを刺すかのように
蹴りを入れ崖の下へと突き落とした。
「ユキーーーーーーーーーーッ!!!」
「……ア、ン……ジェ、……」
“……ごめん、護ってやれなくて……ごめん……”
そうして、倖弥の体が地面に叩きつけられる瞬間……、
「うわぁぁぁぁーっ!!」
目が覚めて起き上がった。
「はぁ……はぁ……」
(……また、あの夢か)
倖弥はインターハイ予選を順当に勝ち進み、いよいよ本選の決勝が明日に迫っていた。
しかし、この一週間、ずっと同じ夢を見てうなされていた。
それはアンジェルと駆け落ちした時の事。
崖っぷちに追い詰められた倖弥達の前にエリック王子が率いる
ウェッジム国の王立騎士団が現れ、倖弥とエリックの一騎打ちになり、倒されて崖から落ちる。
そこでいつも目が覚めるのだ。
今みたいに汗びっしょりになって。
(ちくしょう! 何なんだよ、一体……)