言葉のかわりに−第三章・7−

 

 

・・・コンコンッ。

 

「神崎さん、時間でーす。」

ドアをノックする音がして、名前を呼ばれた。

 

「はい。」

唯は返事をするとゆっくりと立ち上がり、

目を通していた楽譜を置いた。

 

楽屋を出て、舞台袖に待機すると、

今回の客演指揮者・三村洋一も楽屋から出てきた。

年齢はまだ40代前半ながら、世界でも注目されていて

唯も尊敬している指揮者の一人だ。

三村は「緊張してるみたいだね。」と優しく唯に話しかけた。

 

「あ・・・はい・・・。」

唯は三村やオーケストラと共演できる事、いろんな取材が来ている事、

テレビカメラが何台も入っている事などでいつもより緊張していた。

 

「楽しんでやろうね。」

三村はそう言って唯ににっこりと微笑んだ。

 

「はい。」

唯はその言葉と笑顔のおかげで緊張が少し解された。

そして三村に笑みを返し、深呼吸をして一緒に舞台へと踏み出して行った。

 

 

ピアノの前で小さく息を吐き出して呼吸を整え、

三村とアイコンタクトを交わしてから

唯はゆっくりとピアノを弾き始めた。

 

ラフマニノフ

『ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調』

 

唯も好きなピアノ協奏曲の一つだ。

いつかはこの曲をオーケストラとやりたい・・・。

ずっとそう思っていただけに夢が叶った瞬間でもあった。

 

 

演奏が終わると、スタンディングオベーションが沸き起こり、

唯は嬉しくて思わず笑みがこぼれた。

拍手と歓声の中、三村とコンサートマスターの上田慎吾と握手を交わした。

舞台袖に下がってからも、拍手は鳴り止まず、

唯は何度も何度も舞台に出て挨拶をした。

 

それでも鳴り止まない拍手・・・そして、急遽アンコールをする事になった。

 

「あ、あの・・・いいんですか?」

唯はまさかアンコールをやる事になるとは思っていなかった。

 

「これだけ拍手をしてくださっているんだから、応えないと。」

三村と周りのスタッフは優しく微笑み、躊躇っている唯の背中を押してくれた。

 

「・・・はい。」

唯は再び舞台に向かい、ピアノの前に座った。

拍手が鳴り止み、しん・・・と客席が静まり返った。

 

スクリアビン

エチュードOp8−12(悲愴)

 

ラフマニノフに合わせて、綺麗な旋律の曲を選んだ。

しかも、あまり長くない曲を―――。

 

 

―――演奏会が終わり、香奈と和磨達には

「また明日ね。」と言って先に帰ってもらった。

唯はこの後、取材と撮影、打ち上げがあるからだ。

 

撮影だけ先に済ませ、唯は衣装から普段着に着替え終わった頃、

一人の男性が楽屋を訪ねてきた。

 

年齢は、25歳くらいだろうか・・・。

濃紺のスーツを着た男性は、唯に名刺を差し出し、

「初めまして、橘彰彦と申します。」

と名乗った。

受け取った名刺には、『株式会社C&R』と書かれている。

 

かぶしきがいしゃしーあんどあーる・・・?

 

クラシックからロックまで幅広い音楽関係の有名人を 数多く抱えている芸能プロダクションだ。

橘はそこでマネージャーをしているらしい。

唯はポカンと口を開けて驚いていた。

その様子に橘はクスッと笑った。

 

「あ、あのー・・・」

唯はなぜ、大手芸能プロダクションのマネージャーと名乗るこの男性が

自分の目の前にいるのかが不思議だった。

 

「神崎さんは、もうどこかのプロダクションに入ってらっしゃいますか?」

 

「あ・・・いえ、まだどこにも入っていませんけど・・・。」

 

要するに橘は、唯をスカウトに来たのだ。

 

 

「あの・・・すぐにはお返事できません・・・。」

橘から一通り話を聞いた後、唯が申し訳なさそうに俯きながら言った。

 

「もちろん今すぐではなく、ご両親ともよく話し合ってみてください。」

橘は唯に柔らかい笑みを向けた。

 

「は、はい。」

 

「それでは、私はこれで失礼します。」

橘は静かに立ち上がると唯の楽屋を後にした。

 



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